雀の渡世

小禽が世を渡るログ 最近は初めての同人誌に挑戦中です

道場主としての栗本薫

ブランキーの歌詞で一番好きなところ、「音楽って不思議だよ 全てが見える その人が抱いてる全ての世界が まるでいつまでも打ち寄せる波のように」ってさ、これってさ、小説でも絵でもなんでも、本当にその通りだと思うんだ、本気で作られたものならば。

小説は(作品は)作者そのものであり、だからこそ素晴らしい。そうでなければ意味がない。それを気付かせてくれたのは中島梓名義、JUNE掲載の「小説道場」だった。

栗本さんは道場主としての経験をまるでセラピストになったみたいだったと書いている。あの時期の小JUNEを読んでた人たちにならわかってもらえるんじゃないかと思うんだけど、JUNE小説を書いていた人たちはみんな確かに傷ついていた。ある人はその傷を慰撫するために書いていたしある人はその傷をもっと深く刻み付けようとして書いていた。表層はホモ小説でもその中身は自分の物語だった。

そんなふうに子供や子供っぽい人が傷ついてるのを大人と呼ばれる人たちが嗤うのは「中二w」なんて言葉が流行ってる今に始まったことじゃなく、その頃だってJUNE的なコミュニティを嗤ってた大人達もたくさんいたけれど、「その小説を書かざるを得ない者の痛み」を知ってる道場主は嗤わずに道を示してくれた。書くことで癒される痛みもある。というより栗本さんはもっと踏み込んで人は傷ついた心を癒すためにこそ書くと考えてたと思う。(それが拉致被害者はある意味幸運だ的な発言につながってしまったんだろう)

傷ついてる人を嗤わず、同情し、手を差し出すことができる人。それが栗本薫だった。
伊集院大介という類い稀なる「やさしい」探偵を生み出した人は、人の痛みに共感を寄せる優しい大人だった。そして自らは抑圧を強いる世間や常識と戦うことができるアナーキストだった。

当時は名調子の批評がただただ面白く毎号何より道場を楽しみに読んでいたけれど、今になって読み返すと栗本さんが伸び始めた芽を摘まぬよう、細心の注意を払って感想を書いてるのがわかる。プロを目指している人、既に連載を持っている人(フジミね)には読者を想定したアドバイスを、書き始めたばかりの人には「しょうせつのおやくそく」を。自分が苦手とする小説には門番の評も掲載して公平さを保つ。駄目だしもするけどいいところを伸ばすよう助言するのも忘れない。私だったら素人の小説を月に何本も読みたくなんかねー!ってきれてしまいそうなのに。

そして、これが自分だとぶつけてきた相手に対して真っ向から受け止めるその度量。後にプロ作家になられた金丸マキさんへ栗本さんが贈った言葉。

ここからあなたにとっての「本当に書くこと」が始まると私は思う。そこでまた無理解に出会うとしてもおそれることはない。私があなたの小説を読み、そしてあなたという人を知ったのだから。私が私だからではなく、他にも苦しんでいる人がいて、そこにちゃんとあなたの声が届くのだ、ということを私は知らせることができるからーーーだと思う。

ギネスに載るような仕事量をこなしながらの道場で、小説単体のでき云々ではなく、書いた人間の成長を見極めそれを喜び声援を贈る。栗本薫中島梓はそういう人だった。

上の言葉は私に贈られたものではないけれど、こんなふうに考えてくれる大人もいるんだって思うことで何度も励まされた気持ちになった。栗本さんはいわば我々「JUNEを読んで権力とは・・・とか考えちゃう系の(元含む)少女達」をモーセのように導き、地を均し、盾になって守ってくれたまごうかたなき思想の母だった。グインの引き継ぎもきになるところではあるけれど、この道場主であるところの中島梓の功績も守り伝えるべき偉業なのではないかと思うんだ。

http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090527/bks0905271113000-n1.htm

たくさん大切なことを教えてくださってありがとうございました。そうご本人に伝えられないことが悔しく、悲しい。
もし闘病が痛みを伴うものであったならば(ガンであればおそらくそうなんだろうけど)今はもう苦痛に苛まれずにおられるのだなあと思うことだけが救いではある。ゆっくりやすんでください、とはまだ言えない。ご本人はここで終わりにするおつもりはなかっただろうから。ここでいってもしょうがないんだけど、ありがとうございましたって。ご本人に伝えたかった。書けば書くほど諦めから遠い気持ちになってきます。