雀の渡世

小禽が世を渡るログ 最近は初めての同人誌に挑戦中です

雀ちゃん 初めてのサークル参加申し込みをする

初めわれペンを手にして
物書かんとしつれども
かゝるかたちの小さきふみ
作るの心さらになく、
全たく他のもの作る
企てをもて書き初め、
出來あがらんとする頃に
氣がつき見れば、かくなりぬ。

バニヤン 天路歴程 序歌より)

 

うっすいおたくを30年ぐらいやっていますが、初めて同人誌を作成しさらにはオンリーイベントに参加するという、自分の中では思い切ったことに挑戦する運びとなりましたので、経過と顛末など記録しようかという記事でございます。

 

10月16日、サクラ大戦オンリーイベント「えどさくら13」にサークル参加し、同人誌を頒布することが目標となります。マリア本(大マリ)です。よろしくお願い申し上げます。

 

サクラ大戦は発売時にプレイしマリアエンドでクリアしており、その後もマリアを見かけるたび「この人は私の嫁・・・」という認識を持ち続けてはいたのですが、深くのめり込むということもせずにおりました。のが、去年歌謡ショウのビデオを見て大感激。それからというもの音楽、舞台、OVA、マンガ、ドラマCDと貪るようにサクラワールドを堪能していたのですが、見れば見るほど妄想も広がるもので。この妄想をアウトプットすることでサクラファンの人と一緒にキャッキャ言えたら嬉しいなーーーというのが動機でございます。

 

タスクとしては、参加申し込みを済ませたところになります。原稿の進捗としては70パーセントくらい・・・?いやこれ半分いってないかも・・・?

 

何しろ全てが初めてなもので、参加申し込みすら大イベントです。だって何にも決まっていないんですから。ペンネーム・・・ペンネームなあ。ここでも雀と名乗っているからそれはすずめちゃんでいいだろう。サークル名!  おお・・・1人なのにサークル名つけるのは気恥ずかしいぞ・・・雀がいるのは電線だからケーブルでいっか・・・(実際こう書いて提出し、今、絶賛大後悔中) 

 

 成人向けの頒布の有無はもうここで決めなきゃいけないんだ。予定はないけど書いてるうちにノリでどんどんエロくなったらどうなるんだ。 覚悟のないエロは去れということか。というか逆に有りに丸つけといて全年齢本しか出せなかったらそれはそれで日和ったというかヘタレな感じがしてすごく恥ずかしいな。

 

なぜか1人いろんなポイントで恥ずかしがりながら記入しておりましたのですが、一番恥ずかしかったのはあれだ。会場配置のための「サークルの傾向」。 メインのキャラ・コンビ・カップリング など・・・

 

カップリングとな・・・

 

「マリア本です」とだけ書いときゃよかったのかもしれないけれど、実際は大神さん目線からマリアを書いたれんあいしょうせつ(なぜか漢字で書けない)がメインとなる予定の本なのです。カップリングは時に宗教戦争さえも引き起こす。女子が多い界隈ではリバカプさえも憎悪の対象になることがあると伝え聞く・・・悲劇の種子を蒔かぬためにも、ちゃんと書いといたほうがいいんじゃろうか。という考えを経て「大神×マリア本です」と記入したのですが、アレだね!  今こうして打ち込むだけでも恥ずかしいんだけど、手書きで書くのは震えるほど恥ずかしかった!!

 

この恥ずかしさの源泉がどこにあるのか自分でもわかりません・・・自分の嗜好をそんな真顔で世間様に・・・という心理が働いているような気がします。

 

あとあれです。サークル参加申込書の「サイトURL」のところにここの住所書いちゃったんで今焦ってそれっぽいこと?書いてるわけです。お察しください。

 

 

今回得られた知見としましては「初めてのサークル参加申し込みは様々な気恥ずかしさを乗り越える覚悟がいる」ということでございます。各位ご査収下さいますようお願い申し上げます。

 

 

2010両国ピーターパンを観戦して思ったこと

25日にDDTによる「両国ピーターパン」を観戦してきた。



今年の春ごろにとある漫画からDDTとヨシヒコに関心をもって検索をかけ動画を一見して以来、雪崩のようにその世界にのめり込んでしまった。

こちらがその漫画。


それからネットで情報を得たり会場に足を運んだり幸運にもDVDをお借りしたりして知識を増やしはしたものの、ニワカファンはニワカファンでしかない。10年以上の歴史を持つDDTのたかが4ヶ月分だ。だから私がこれから書くことはまるっきり的外れかもしれないことを、卑怯ながらも前置きさせていただく。

のめり込んだきっかけはご多分に漏れずというべきか飯伏選手。飯伏選手の試合はとにかくキャッチーだ。プロレスを知らなくても面白いと思える試合をしてくれる。早く力強く高く、目の覚めるような動きと緩急で繰り返し見ても飽きることがない。技の繋ぎ方は流麗で一つ一つの所作がつま先まで美しい。背中のかっこよさは特筆もので、「鬼が宿る」とはこのことかと思わされる。

それからこれはあまり同意を得られそうにないけれど、ダウンした飯伏選手の背中を見て「私はこれを知っている!」と衝撃を受けたんだった。アングルのグランドオダリスク。裸婦像に似ていると思うのは失礼に当たるだろうか。しかも「解剖学的に正しくない」とされた背中に似ているなんて。とにかく飯伏選手のシルエットは現実には存在しないオダリスクの背中のように美しいフォルムだと私には思えた。

そして情報を漁っていくにしたがい、見たこともないような美しいフォルムをもつ人は見たこともないような奇特なキャラクターであることを知る。知ってますます好きになる。そうなると、飯伏選手のその先にあるものも知りたくなる。DDTの個性的な面々を知ってますます興味を持つ。だから私が観ているものは飯伏選手を起点としたDDT寄りのプロレスの世界だ。起点がハンセンかライガーか橋本か、なんて差はあれプロレスファンになるきっかけなんてだいたいがこんなものなんじゃないかとも思うけれど。

だから飯伏選手が両国を欠場すると知った時はがっかりもしたけれどそれより怪我の悪化という事態の方が心配だったし両国そのものへの期待は全然薄れてはいなかった。だって「あの」東郷さんと「あの」TAJIRIさんが戦うんでしょう?「あの」丸藤さんを生で観れるんでしょ?男色先生は今度はどんな仕事を見せてくれるんだろう。ガントレットはどうなるんだろう。ダークマッチで葛西さん見れるんだ!そしてなによりHARASHIMAさんを応援しなくちゃいけないもの! このように、すぐに通ぶりたがるおたくな性質が幸いして小鹿さん出場決定と聞けば「ああ、両国だからちゃんこつながりかあ・・・」とか考えてしまうくらいにはもうこの世界にはまってしまってはいた。

自己紹介ばかり長くなった。25日の観戦を終えて。

これは、このDDTという現象は、高木大社長の一生をかけて展開するパズルなのかもしれない。そんなことを考えた。大社長は中央不動の1ピースでありプレーヤーだ。自分というピースに親和性の高いピースを探し当てて結合しじわじわ大きくなっていくパズル。近侍はDDT選手の面々、その周囲にプロレス界とファン。「25日にUSTでプロレスやってるって言うから観てみたー」なんて人がいたらその人たちが一番外周に近いと言えるのかもしれない。それでピースがぴちっとはまったひとはパズルの一角として馴染んでいくんだろうし、ぽろっと外れる人もいるだろう。DDTの強さって、この外れた人を追わない大社長の忍耐強さなんじゃないかと考えた。絵面を大きくするために合わないピースを無理矢理ねじ込んだって脆くみっともなくなるだけだと大社長はお考えであられるのではないか。その大社長の美学が両国の会場の一体感を生み出したのではないかと私は考える。

中澤選手のファイアーバードに胸を打たれた人も多かっただろう。男色先生が声を振り絞るマットの下でメイド服の大男が何度も何度も目を拭うのを見た。メインの試合ではHARASHIMA選手はもう立てないんじゃないかと倒れる度に思った。立ち上がるHARASHIMA選手が信じられなかった。だから蒼魔刀が決まり新藤さんがHARASHIMA選手の名前をコールする声が歪んだのを聞いた瞬間、「あ、大社長、今なんかが完成したよ!」ってそんなふうに思った。故障者の多さとか、大変なことも多かったんだろう。その大変さのいちいちを私が知るわけもなく、わかるのはただいろんな人のいろんな努力やアクシデントやドラマが新藤さんのコールに結実した。そしてそれは美しかったということだけだ。そしてその道筋をつけピースを組んで絵を描いたのは大社長、高木三四郎なんだなあ。と。

DDTを見るとどうしても自分の仕事感、ひいては哲学の脆弱さというものをあぶり出される思いがする。なんでこの人たちはこんなに一所懸命になれるんだろうと憧れとともに我が身を振り返って焦燥感を覚えることもある。大社長は2年目の恐怖をたびたび口にされておられたが大社長がいるかぎりDDTは間違わない。迷わない。そんな気がする。3年目、なにを見せてもらえるのか本当に楽しみだ。私なんかまだこんなふうに日曜の余韻に浸っているというのに、ご本人たちはもう次に向けて動き出しておられるのが頼もしい。私もまんまとピースにはめられてしまったようだ。

飯伏選手にはとびっきりの笑顔とサインをいただけた。わたくしめなぞに笑顔を賜られるだけでももったいないのに、アニメとかで使われるキラキラエフェクトが現実に見えるような一点の曇りもない完全に善なる笑顔で目がくらみました。こんなにうれしいことはない。ララァならわかってくれるよね。あっせっかくここまでまじめに書いてきたのに。というかここまでなら「楽しかった夏の思い出」で終れたのだけれども。

25日当日は疲れきって帰宅後ばったりと寝てしまい、パンフを読んだのは次の日だった。そしてそこには「夢と元気をもらいました。ありがとうDDT☆」とかそういう世界では終われなくなってる男がいた。曰く天才。曰くトンパチ。曰く紙一重。あの笑顔の持ち主はこんなにもゲバな精神の持ち主なのかと打ちのめされた。

DDTにはポストモダンと評されるマッスルもある。マッスルは既存のプロレスの枠を土台にパスティーシュを描く。それは決してプロレスにゲバを仕掛けるんではなく愛をもって斜め後ろぐらいにそっと立つ存在であるように思える。それはプロレスを脅かさない。(ゲバととる人もいるみたいだけど)

飯伏選手はインタビューで「やれる範囲ではやり尽くしたんでここから先はやれる範囲の外に行かないと」と語っていた。これは一見マッスルの掲げる「プロレスの向こう側」を想起させるが、飯伏選手が表現したい「やれる範囲の外」にあるプロレスはマッスルの盟主坂井選手が表現してきた「向こう側」とは真逆のプロレスになるんじゃないだろうか。そして飯伏選手がその表現に着手した時(「こういうことがやれたらいいな〜(ポワポワ〜)」というレベルの話ならいいのだが彼ならいつかやりかねんという危惧を抱いてしまう)それはプロレスの枠に収まるものであるのかどうか。

飯伏選手はプロレスからソフィスティケイトされた部分を取っ払おうとしているように読めた。それがプロレスと言えるのか、は、おくとして、少なくてもスポーツじゃないように思う。それは思想で、その思想をプロレス表現を通じて世に問おうというならそれは芸術家という奴なんじゃなかろうか。あのインタビューを真に受けるのなら飯伏選手はプロレスのダダカンさんになってしまわれるんじゃないかとか・・・・本人がなりたいならそれでもいいのか・・・・いや別になりたいなんて一言もいってないけど。

ベルトを穫って、それがなんなの?という感覚には100%共感する。かつてのボクシングやプロレスのように「スポーツは貧乏人が一攫千金を狙える人生逆転の場(って寺山修司の刷り込みだろか)」ならば勝ち負けは必然的に耳目を集めるドラマになる、気がするんだけど、現状はそんなこともない。KOD無差別の煽りVで関本選手がベルトをアクセサリー呼ばわりしていたけれど、プロレス新参者の私にとってはそれは憎まれ口でもなんでもなくただの事実に思える。そんななか飯伏選手のモチベーションがベルトや優勝ではなく「線路でジャーマン」であることには何の疑問もないし、そういう人だから好きになったんだろうなあとは思う。

ただ、そういうことを言ってしまえる人の人生は、そこに口をつぐむ人の人生よりも険しいものになってしまうんじゃないかというのが心配だなあと思ってしまうわけで・・・・とりあえず不法侵入で捕まるくらいならいいけど自分や相手が怪我をするようなことだけ我慢していただければと思うのはファンのわがままでしょうか。これは新参ものゆえの心配し過ぎなんでしょうか。「ダイブして死んだら満足」なんて思うわけないよ。というこっちの気持ちがいくらかでも伝わるといいんだけれど。期待するな期待するなとそこまで言うのならもう期待はしないでおくけれども、せめて興行という枠だけは外さないでいていただきたいと切に切に願う。

例えば火焔太鼓志ん生しかやっちゃいけねえって法があるわけでもない。また、オーディエンスは一回聴いたからもう聴かなくていいって思うもんでもないし、演者は毎回新しいサゲをつくらなくちゃいけないってこともないんだ。新しい試みは別にやっていくという前提で、普段のプロレスも「あー落語みたいなもんかー」って感じに思えれば少しは作業感や過度な期待に応えなきゃって感覚も減ったりしないだろうか。そもそも飯伏選手は一般に広めたいって言ってるけど私だってちょっと前までプロレスを全く知らない一般人だったんだから今のプロレスでも広がってるじゃないか。あれ?でもそれは私がDDTやプロレスにそもそも親和性のある人間だったからで一般人ではなかったということ?? あれ???

インタビュアーを務めた鈴木健さんの反応が面白すぎた。「プロレスを広めたいという気はあります」という飯伏選手の言葉を受けて「あるんですか!よかった」ってほんとにほっとしたんだろうなあと思ったんだけど、そのあとすぐ「広めたいのは自分のプロレス」と言葉を足されての「そっちを世間に届かせたいだけなんですね」というのがもう、なんかこの瞬間健さん諦めたなあ、みたいな。その後の微妙ななげやりっぷりがたまらなくおかしかったんだけど、「新しいプロレスを作ろうと」とか「続けます」という言質を飯伏選手から引き出して下さったことに心からお礼を言いたい。「散る」とか「ダイブ」のあたりで本気でぞっとしたので。

日曜からこっちほんとにいろんなことを考えされられた。両国に関わった皆さんが笑顔でいられる日が一日でも多くあらんことを願って終わります。お疲れさまでした!

それではまた会場で!

ラギッド・ガール 飛浩隆 読了

昨日は高橋葉介先生のサイン会があったのではじめて神保町に行ってきました。素敵な街でした。フォントとか。デザインとか。戦前っぽくて!(偏見)神保町はおりしも古書祭りの真っ最中で、葉介先生のサイン会も三省堂さんの企画によるお祭りのイベントだったみたい。

リクエストでイラストを描いていただけちゃったのですが、うわずった声で「夜会のまみやさんをお願いします!」とか言ってた私は相当アレだったと思います。先生も「どういう意味だろう」と上を向いていらっしゃった。ああ。

そしたら「じゃあお酒を飲んでるところでも」とゆーことでマティーニグラスを傾けて こっちを見てる まみやさんを描いていただいてしまいました! うわーうわーうわー まみがこっちを見てるから私が直視できない!(愚か)

家に帰ってから「夜会」を読みなおして夜会で女の人にべたべたしてるマミを見てあっこのえろいまみやさんだと思われてたらどうしようと固まりました。いやほんとにあの話が大好きなだけなんですほんとにほんとに。高橋先生これからもお美しいまみやさんを描き続けてくださいませ。

整理券を受け取ってからサイン会の列に並ぶまで時間があったのでお祭りを見に行きました。早川書店の露店に行列ができてて何事かと思ったら作家さんのサイン本を売ってたんですね。積み上げられてるダンボールを覗いたら飛先生のグラン・ヴァカンスとラギッド・ガールのサイン入り単行本を一冊づつ発見。ラギット持ってないしちょうどいいやと思って列につく。目の前でグラン・ヴァカンスが売れちゃった時は冷や汗が出たけど本命のラギッドガールは無事入手。わあい! あと皆川博子先生の大傑作「死の泉」サイン入りを保存用に入手。わあい! いいお祭り!

グラン・ヴァカンスは文庫で買ったのでラギッドも文庫が出るまで待とうと思っていたのですがこういうご縁で入手できたのはラッキーでした。しかし。しかししかししかし。

読んどくべきだったー。一刻も早く読んどくべきだった!


私がこの日記でぐちゃぐちゃこね回していたテーマを美しく面白くまとめあげておられる。そう、それがいいたかったんだよ!と読み終わるまでに何度思ったことか。私はこれをよんどきゃよかったんだね。

私にはSFの教養が全くないので開かれなかった書物の登場人物の未来の不確定性とか「コレクター」に関する記述のあたりがわかりやすく特に面白く読めました。そしてこれもやっぱり「虚無への供物」の「ご見物衆」とリンクしてるなあと思ったり。ドラホーシュ教授って文学部唯野教授としゃべり方が似てるなーと思ったり。

グラン・ヴァカンスを読み始めたとき、私はアニメ的なイメージで読み始めてしまい(ジブリ的な美しい背景に貞本デザインなジュールやジュリー、みたいな)こっちが勝手にアニメ絵変換してたにもかかわらず「あれーこれちょっとキャラ物小説なのかしら。だったら苦手だなあ」とか思っちゃってたんですが、ラギッドを読んでその「個人的な勝手な変換」もこの「数値海岸」を巡る物語では意味のあるファクターでありうる、か、ファクターになりうる、か、とにかく無関係ではないんだなあと考え、それならば私はもうすでにこの物語と「相互にかかわり合っている」と言えなくもなくーーーーーとか、そこまで考えさせられるような底なし沼のような物語でした。大変。

「魔術師」を読むと用語は違えどこれもまたゴーストとシェルの物語なんだよなあ。とか思ったり。

それにしても「数値海岸」は理想郷過ぎる。東方動画に「幻想入り」ってジャンルがあるけどまさにその「俺が幻想入り」を限りなくリアルに体験できるってことでしょう? そう、こんな動画もあるくらいで。

私だったらどんな「区界」を運営するかなあ。やっぱり魔都と言われた時代の上海かなあ。ゲストとしてそこで高等遊民として遊び暮らすのです。毎日ビロードのドレスを着て暮らすのです。そこには当然マミもいるね。マミのいきつけのバーの女主人、なんてロールが高価に売り出されるわけ。うわー買う。買う。いくらだせばいいの?

大戦前のマミがいる銀座でもいいや。(スケールちっさ!)下宿の女の子のロールはいくらで買えるんだろう。それか大戦前のベルリン。どうも「大戦前の」がポイントらしい。数値海岸には何万という区画があるらしいから、そのうちの一つぐらい私が書いちゃってもかまわないんじゃないかなー。てか、いろんな人がスピンオフとしていろんな区界を書いたりしたら楽しいんじゃないかなあー。多少できがわるくとも、ああ、粗雑な作りのだせー区界だな、で済ませられるし。とか、そんなことを考えさせられる小説でございました。そんでやっぱり「天野大気」さんのこととか「クレヨンしんちゃん」のこととか連想してしまいます。しんちゃんの世界、あれもある意味「グランドダウン」なのではないかとか。

ラギッドのあとがきのラスト一行が白眉。
「本書を、静かなハードディスクたちに捧げる」
Macの前に座って部屋を見渡して、人の手の入らないものは一つも目に映らない。目に入るもの全てが誰かの行動の結果であり、誰かの行動の記憶なんだ。私が打っては消すこの一文、死んだデータの堆積すら私の行動の記録だ。呆然としてしまいますね。

銀河の歴史にsurumelock

マイリスがじわじわ増えていっているので、後で「するめ固めはワシが育てた」と吹聴するためにここにぺったり。
D
なんというか天野大気さんの血脈を感じるパラレル・ゴッタ煮・カオスタッグトーナメント漫画。雀はカオス上等! ジャーマンプログレ虹裏はわからないけど少佐のフルネームなら間違わずに言えます! な人なので毎回毎回もう誰がでてくるやらwktkしながら視聴させていただいています。一話のラストであのヒッキーが出てきた時はほんとに茶を吹くかと思いました。そしてこれは後の歴史家に伝説として書き留められる作品になると確信したのです。ジークカイザー。

シリーズ最新作では激闘の末第一戦目が終結し、ついに「彼」のパートナーである「あの人」の参戦が明かされる!となんとも熱い展開が繰り広げられているわけですが、(出てオチるタイプの漫画だから名前を出せないのがつらいぜ!)そこに差し挟まれる小ネタが明らかに同じ時代に同じものを観て育ってきたお方であることが伺えて勝手に親近感を抱かせていただいています。レピッシュって。東方動画のBGMにハーメルンって。懐かしすぎてユッカーどころじゃなくなるわ。

そうなんだよ、レッカーシーンには「ドナドナ」じゃなくて「中島みゆき」、まさる世代ならそうなんだよな!(でも観たのはたぶん再放送)

ちょっとネタバレになってしまったらごめんなさいなのですが、「芸人が地球を救うスレ」(タイトル失念)では一際かがやきを放っていたひぐちカッターがどこまで通用するのか今から楽しみです。テレビみないからひぐち君見たことないんだけどね。

はのあきいつ復帰するんっすかねえ。

そういうまんがです!おっさんとオリーブ少女臭とプオタと全てのニコ厨にお薦め!ああ、私も絵が描けたならアリスとアリス・クーパーをリングに乗せてみたりしたいのに!(ヤンデレ対決)作者のするめ固めさんまだ長い道のりだとは思いますがどうぞ楽しく書き続けられて下さい。


それにしても勢いのあるところに才能のある人が集まるのは理の当然ってだけな話かもしれないけど東方タグのシリーズ物にははずれないですねー。みなさんほんっとお上手。手書きも素晴らしいけど陰陽鉄はヴァナ住民でありブロントさん信者でブーメラン大好きっこの私がこれを見逃せるはずもなく、また、東方GTA特に「レミリア様が行く」があもりにも面白すぎるためとうとうGTA自体を購入してプレイし始める始末。これはむしろMacを新調してブーキャンで東方をプレイするべきなんではないだろうかと思い始めている今日この頃でございます。

あっGTAちょうおもしろかっこいいね! さすが売れているだけのことはあるね!

道場主としての栗本薫

ブランキーの歌詞で一番好きなところ、「音楽って不思議だよ 全てが見える その人が抱いてる全ての世界が まるでいつまでも打ち寄せる波のように」ってさ、これってさ、小説でも絵でもなんでも、本当にその通りだと思うんだ、本気で作られたものならば。

小説は(作品は)作者そのものであり、だからこそ素晴らしい。そうでなければ意味がない。それを気付かせてくれたのは中島梓名義、JUNE掲載の「小説道場」だった。

栗本さんは道場主としての経験をまるでセラピストになったみたいだったと書いている。あの時期の小JUNEを読んでた人たちにならわかってもらえるんじゃないかと思うんだけど、JUNE小説を書いていた人たちはみんな確かに傷ついていた。ある人はその傷を慰撫するために書いていたしある人はその傷をもっと深く刻み付けようとして書いていた。表層はホモ小説でもその中身は自分の物語だった。

そんなふうに子供や子供っぽい人が傷ついてるのを大人と呼ばれる人たちが嗤うのは「中二w」なんて言葉が流行ってる今に始まったことじゃなく、その頃だってJUNE的なコミュニティを嗤ってた大人達もたくさんいたけれど、「その小説を書かざるを得ない者の痛み」を知ってる道場主は嗤わずに道を示してくれた。書くことで癒される痛みもある。というより栗本さんはもっと踏み込んで人は傷ついた心を癒すためにこそ書くと考えてたと思う。(それが拉致被害者はある意味幸運だ的な発言につながってしまったんだろう)

傷ついてる人を嗤わず、同情し、手を差し出すことができる人。それが栗本薫だった。
伊集院大介という類い稀なる「やさしい」探偵を生み出した人は、人の痛みに共感を寄せる優しい大人だった。そして自らは抑圧を強いる世間や常識と戦うことができるアナーキストだった。

当時は名調子の批評がただただ面白く毎号何より道場を楽しみに読んでいたけれど、今になって読み返すと栗本さんが伸び始めた芽を摘まぬよう、細心の注意を払って感想を書いてるのがわかる。プロを目指している人、既に連載を持っている人(フジミね)には読者を想定したアドバイスを、書き始めたばかりの人には「しょうせつのおやくそく」を。自分が苦手とする小説には門番の評も掲載して公平さを保つ。駄目だしもするけどいいところを伸ばすよう助言するのも忘れない。私だったら素人の小説を月に何本も読みたくなんかねー!ってきれてしまいそうなのに。

そして、これが自分だとぶつけてきた相手に対して真っ向から受け止めるその度量。後にプロ作家になられた金丸マキさんへ栗本さんが贈った言葉。

ここからあなたにとっての「本当に書くこと」が始まると私は思う。そこでまた無理解に出会うとしてもおそれることはない。私があなたの小説を読み、そしてあなたという人を知ったのだから。私が私だからではなく、他にも苦しんでいる人がいて、そこにちゃんとあなたの声が届くのだ、ということを私は知らせることができるからーーーだと思う。

ギネスに載るような仕事量をこなしながらの道場で、小説単体のでき云々ではなく、書いた人間の成長を見極めそれを喜び声援を贈る。栗本薫中島梓はそういう人だった。

上の言葉は私に贈られたものではないけれど、こんなふうに考えてくれる大人もいるんだって思うことで何度も励まされた気持ちになった。栗本さんはいわば我々「JUNEを読んで権力とは・・・とか考えちゃう系の(元含む)少女達」をモーセのように導き、地を均し、盾になって守ってくれたまごうかたなき思想の母だった。グインの引き継ぎもきになるところではあるけれど、この道場主であるところの中島梓の功績も守り伝えるべき偉業なのではないかと思うんだ。

http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090527/bks0905271113000-n1.htm

たくさん大切なことを教えてくださってありがとうございました。そうご本人に伝えられないことが悔しく、悲しい。
もし闘病が痛みを伴うものであったならば(ガンであればおそらくそうなんだろうけど)今はもう苦痛に苛まれずにおられるのだなあと思うことだけが救いではある。ゆっくりやすんでください、とはまだ言えない。ご本人はここで終わりにするおつもりはなかっただろうから。ここでいってもしょうがないんだけど、ありがとうございましたって。ご本人に伝えたかった。書けば書くほど諦めから遠い気持ちになってきます。

もはやブルーミーでもなんでもない子ちゃん


「はじめてのドール・コーディネイトレシピ」を参考にワンピースを縫いました。初心者だけど本の通りにがんばったらかわいくできました!この本はブラウスとかテーラードジャケットとか「かちっ」とした服が掲載されているのでちゃんとつくると上手に見えそうなところがいいですね。

顔が大人っぽいのにアホな柄のワンピになっちゃいましたが。でも形がきれいだからそんなにおかしくもない、はず(自己暗示)。20センチ買ってきたんだけどまだ4分の3以上あまってるよーどうしよう。自作派の人は余ったはぎれはどうなさっているのでしょう。
裾のレースは100均のレース。幅広のものを使ったのでかなり下からのアングルにも耐えれるというか、なんかこれ見たことあると思ったらシリーズシアンのファティマスーツのレース使いみたいじゃないのー(悦)そう考えたらこの子がラキに見えてきた。

きょうきょ有り合わせのもので作ったのでどこもおかしくないようにみえるがコーディネイトすると頭がおかしくなって死ぬフェルトとビーズのクラッチ。このでかさでクラッチなのはひもを編むのを放棄したから。この格好でこの季節なら本来ならかごバックとか持たせてあげる方がいいんだろうけど血迷いました。

キノコのチャームネックレスはワンピのキノコ柄に合わせたつもりだったんだけどキノコは背中に廻ってしまった。これも鎖じゃなくてレースでチョーカーっぽいの編んだ方が似合いそうなんだが気力がつきてこんなことになっています。

手の込んだ超絶おしゃれ服とかじゃないですけど、自分で作ったお洋服を着せてあげられて大変満足です。思った以上に手縫いも面白かったですし。ミシンがあったらもっと早く奇麗に縫えるんだろうなあとかよくない夢がひろがりんぐしてしまいます。

オーブリー→ブルーミー化計画5

なにげなく「忍道」プレイ動画を開いたら囲炉裏だった。何を言ってるのかわからねーとおもうが「そういえばまったりって書いてあったしね」の片鱗を味わったぜ。こんにちは。雀です。


いやーーー可愛いなあ!(バカ親)髪の毛はとりあえずこんくらい残しておくことにしました。すきばさみで量を減らした方がいいのかな?「ブルーミーっぽい衣装を作るならまずはチュールじゃろ」とか思ってとりあえずチュールとチャコペンと仕付け糸を購入・・・これがFF11ならあとは座って「わーーー」ってするだけなのに現実では「何かが出来上がる気配」すらありません。どうしたらよいのでしょうか。あと、チュール1m340円って。やしーーーんだなチュールって。ルミネで売ってたチュール巻いただけのオーバースカート13000円くらいしたぞー。

バブーシュカのつもりで編んだ「何ものか」は薔薇のチャームをつけてショールにしてみました。エミーグランデの太さはブライスにはもはや「縄」だ。

ついでに今編んでるビーズのエジング。レース編みの一番の悩みは編むのは楽しいけど使いどころに困るところ。


私は情報は何でも2chで集めればいいと思ってる2ch雀なのでブライスを買ってすぐお人形板に入り浸るようにあったんですけれど、現実世界がいろいろなよーにお人形世界もいろいろだなというか、四谷シモンリラックマが同じ板でいいんだ!というのが新鮮でした。リラックマスレは他ドールをやってるひとが息抜きにくるスレなのかもしれないけど。

で、どの趣味にしても部外者から見れば「ちょっと特殊」と思える部分があるのかもしれませんけど、それにしても「人形趣味」とうのはとりわけ少しばかり特殊なんじゃないかなーという感想を持ちました。例えば「ドライとウエット」なんて用語ができてしまうあたり。何のことかとざっくり説明するなら人形を単なるコレクション対象としてみてる人=ドライ、無機物以上の何かであると考える人=ウェット、ですかね。公式用語じゃないからその線引きも人によってまちまちでしょうが。

私はどっちかっていうとウェットなのかな? おっことしたりどこかにぶつけたりすると「おお、ごめんごめん」って謝っちゃったりする。人の姿をしてるとねーやっぱりなんとなくぞんざいにはできませんね。ブライススレで「箱出ししてないのが数体押し入れで眠ってる」なんて記述をよくみかけるんだけどなんかちょっとかわいそうだなーなんて思っちゃうし。あのー、昔親が車を買い替えたときに「前の車がかわいそうだ」つってわんわん泣いた子供だったんで人形に限った話じゃないんだろうと思いますが私の場合。うーん、ドライウェットじゃなく「みっちゃん」というカテゴリーを作ってもらったらそっちに近いかなあという気もするのですが。まさちゅーせっちゅーーはしないけれども。

お人形板でリラックマスレの対極にあるのが創作人形批評スレかなーと思いましたが、さすが夜想で育ってきたお嬢さん達は妥協しないね! 「人形は商品であってはならない」「芸術であってもならない」「人形作家はただ 人形 をつくるべし!」みたいな。何かに奉仕する存在であってはならないって不文律が人形愛好家の間にはある気がする。理解できなくもないなーっていうのが、やっぱり人の形をしているからねえ。「人形の人格」を尊重するとそーいうことになってしまうというか、いやほんと凄い人のお人形は魂があるようにしかみえないしなあ。

70年代生まれあたりの我々が球体関節人形を初めて知るきっかけとなったのはやはり「カタンドール」なんじゃないかと思うんですけど、天野可淡って人形界の月影千草というかジェームスディーンというかいやどっちも違うか・・・なんかもう絶対に超えられない一つの壁、みたくなってるよーに思いました。そのカタンドールを撮影したのがやはり人形作家の吉田良さんなんですが、この人は「イノセンス」のハダリのモチーフになった人形を作った方でもあります。イブ=ハダリ=あいどる。「人はなんで偶像を求めるのか?」というのがこのブログのメインテーマだったりしますので(今決めた)自分が人形に手を出したのはほんと必然だったのだなーと一人でものすごく納得しました。がってんがってんがってん。